近況報告(長沼 文彦くんから)

埼玉県狭山市    長井高校の思い出

入学式直後のある日。私は野球部のブルペン練習を見学していました。

入学式直後のある日。私は、野球部のブルペン練習を見学していました。風切り音を纏って、目の前を通過して行く硬式球の迫力に圧倒され、軟式球との違いに感心しきりの最中でした。気配を感じて振り向くと、上級生と思しき三人が、不機嫌そうに立っていました。顎で指し示す方向に付いていくと、其処は、長屋風の部屋の一室。滑りの悪い引き戸を閉めた後に、下された一言は、『来週からサッカー部な』。バグ状態で竦んでいる私に、背中に回った一人が、『分かったかと聞いてんだよ』と凄みます。両膝の震えを覚られないように、やっとの思いで絞り出した返事が『はい』。口唇の動きとは別の言葉が、胃の辺りから飛び出ました。


どこをどう歩いて南長井駅に着いたのか、思い出せない程、混乱していました。チキンな自分を深く恥じているのに、米沢の高校に進んだ仲間との約束(新人戦で会おう)が、意地悪に湧いてきて詰まります。このまま汽車から降りずに遠くに行ってしまいたい気持ちでした。

一年生部員の練習(仕事)は『声出し』。両足を開き膝に手を置いて『ガンバ(レ)-』と連呼します。声が小さいとか、気持ちが入ってないとかで、強めの指導が入ることも当たり前。雨の日に、泥をたっぷり付けたボールをゴール前でヘディングするなど、技能の向上には直接結ばない練習もありました。しかし、二か月を過ぎた頃には、憂鬱だった部活が、苦痛に感じなくなります。声出しは相変わらずでしたが、不思議と楽しくなっていったのです。

サッカーが好き過ぎて、午後の授業は上の空でしたから、成績は酷いものでした。追試も沢山経験しました。三年になり、少しは自信の付いた頃の県大会の相手は、県内最強の日大山形。ジャイアントキリング狙っていましたが、直前の練習で両足踝を捻挫して、ベンチ外。高校最後の大会は、あっけなく終わりました。

中学サッカー部の顧問を目指しましたが、就職したのは小学校。団地の中の新設校で、子供たちと明け暮れました。十年後に、教員と教え子を中心にしたクラブチームを設立。
38歳で、関東協会二級審判員の資格取得。
42歳で、姉妹都市の韓国統栄(とんよん)市との市民交流。

現在は、シニアチームに移り、週末の練習試合とJ2モンテディオ山形のTV観戦が、何よりの楽しみです。
今も大切にしている思い出があります。一つは審判試験。難解なルールテストに加え、厳しい体力テスト項目の中に、12分間で3,000mがマストの持久走があります。三年間毎朝四時に起きて、まだ眠っている街の中を走りました。当日は3,010mで通過しました。

準備万全で、選手がパフォーマンスを発揮できるよう黒子に徹するのが責務。審判活動を通して、準備の出来が成果を決めることや毅然と対応の大切さを学びました。

もう一つが、姉妹都市親善交流試合です。当時の韓国代表は、アジア最強で、正にラスボス。日本代表は、何度もW杯予選で跳ね返されましたから、負けたら帰らない程の覚悟で韓国に渡りました。結果は、二戦二勝。個人では1ゴール2アシスト。ローカルな親善試合でしたが、感極まって大泣きしてしまいました。
上手くても走れない人にパスは来ません。

仕事が休みの日は、河川敷のヨタヨタ走りと雨の日は筋トレを、怠け心に課しています。とはいえ、来年は七〇の大台。九箇所の入院手術に加え、カメラやMRIによる経過観察が二箇所と、立派なポンコツです。そんな私のサッカー人生の原点が、長井高校でした。あの日あの場所で、先輩方との出会いがあったから、今があるのだと思っています。心から感謝しています。
五三年前の五月の長井線。車窓に広がるのどかな景色を見ているようで見えてない程に落ち込んでいた私に、赤い帽子を被った車掌に扮して近づき『大丈夫』と伝えたい思いです。