高橋朗アートワーク展 Akira Takahasi Art work exhibition を観て
高橋朗氏なんて言うと、まったく他人のようだし、高校時代と同じように、アッシュと呼ぶことにしよう。
大学時代と言っても、もう30年以上前の話だ、内山俊郎(今年5月癌で他界)のアパートに遊びに行っていた僕に内山が
「アッシュのとこに行ってみる?」
そう、アッシュも同じ場所に住んでいた。部屋に行くと、鍵もかかっていない部屋に、よくぞ、ここまで散らかしたなと思うほど、絵の具やデッサンされた紙などが散らかっていた。描きかけのキャンバスがあり、そこには、およそ高校時代のアッシュとは想像できない、抽象画が描いてあった。缶コーヒーを持って戻ってきたアッシュとあっても、芸術家としてのアッシュと高校時代とのギャップを感じて
「アッシュって、芸術家だったんだ....」
アッシュと抽象画、この組み合わせだけが、30年間以上の時間、僕の頭に記憶されてきた。
想像していた石彫は、あの抽象画を引っ張ってしまったので、驚いてしまった。
池から顔を出す魚や、木をついているきつつき。
高校時代から芸術家へのギャップ。抽象画から石彫へのギャップ。僕はアッシュに何度びっくりさせられるんだろうか。いや、僕はいかに彼を知らなかったのかと反省させられる。後で、アッシュと飲みながら聞いた話だが、「あの抽象画は、大学の課題で、俺は何も変わっていない。」そんな風に思っていたのかとうれしそうに笑った。
ふと、会場を見渡すと、本当に置賜を愛された父上の早苗さんが描かれた自然の絵画が暖かくアッシュの作品を囲んでいる。その中に、池の魚がいたり、鳥がいたり、きつつきがコンコンと枯れ木をたたいている。この光景ってなんなんだろう。
アッシュの描こうとした世界がここにあるような気がした。確かに、アッシュの作品は某所のちびっこ広場だったり、再開発事業だったり、彫刻家みたいじゃない。どっかのロビーの何とかの像なんて作品ではない。
アッシュは自分の作品を今回であれば、父上との絵画展の中に組み合わせてアートし、さらには広場や建物や街並みとあわせてアートしているのだ。
学生時代、建築学部の友人がいて、そいつは町全体の設計をして建物の設計をするといって町全体の模型の作成をよく手伝わされた。
アッシュは、それと似ているが、それよりも芸術家の観点で地上の遠くから街並みだけではなく、日本、地球を観ているような気がする。遠く、宇宙から見ているような気がする。そして、彼の望遠鏡で、アートしている。
アメリカの人口衛星から、北朝鮮の核施設や建物、車までわかる時代だ。アッシュの目からは、地球が見え、さらに拡大していくと、森や街や、そこに住む家族や子供たちのはしゃぐ声さえ聞こえる光景が見えるに違いない。そこに同化した彼の石彫があるのだろう。
彼の作品が、新しく作られる赤湯温泉のなんと温泉の湯の出てくるところに収められるそうだ。その温泉に行ったら、宇宙から見ているアッシュのことが気になって、タオルで前を隠しそうだ。(今泉 孝)