『月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり』(渡辺清人くんから)
わずかばかりの小銭と自由な時間、そして健康と有り余る好奇心のおかげで、卒業後50年の同級会に参加することができました。このような会を企画して頂いたことに、まずは何より感謝いたします。
父の仕事の関係で東京より飯豊町(萩生)に転居し、小学校途中より中・高と過ごしました。「超」がつくほどの自然に恵まれた環境で、東京から来た転校生は、春夏秋冬すべてが遊び場で野生児のごとくのびのびと過ごしました。ただ高校時代は勉強と部活動にほろ苦い思いをして、少しいじけていたように思います。
成績でクラスを分ける、試験の結果や大学入試の結果を廊下に張り出す、勿論名前入りで。今思えば、巻紙に墨で書いてくださった先生も、さぞ大変だったことでしょうね。
部活動では、その頃にはやった実在の高校をモデルにした漫画、「赤き血のイレブン」に憧れ、サッカーもいいなぁーと思っていました。しかし、中学時代野球をやっていたこともあり、我々が入学する前年秋の県大会に優勝、東北大会に出場した野球部に入部。入学当初は、春休み中の顧問・部員による勧誘活動の成果もあり、十数名の同級生が入部したように記憶しています。練習は活気もあり充実していました。
ところが、夏の大会3回戦で敗退し、新チームに切り替わった頃には、次々と1年生部員が止めていきました。結局、入学当初から残った同級生は、加藤、児玉、それに亡くなった鈴木栄。
誰にとはなく、勧誘活動までしておきながら、もっと面倒見ろよな!という思いでした。
高校卒業後、再び父の仕事で飯豊から離れました。
今回、JR東海道線二宮駅(神奈川県)から普通電車で東京駅へ1時間、山形新幹線で2時間半、赤湯から30分、ざっと4時間で50年前の世界に。
幾人からか呼び止められ、お互いを認識(変な表現ですが・・・)できた時の感動たるや不思議な気持ちでした。50年という時の重さと軽さ、そしてその長さと短さを、全部同時に味わった瞬間でした。
次の50年後はないですよね けど、また、お会いしたいですね。
JR東海道線に乗車の折には、是非「二宮」にて下車、ご連絡ください。
二宮町吾妻山より相模湾を望む