近況報告(國中 聡くんから)
転校生 昭和48年卒
ご無沙汰しています。高校から山形大学を卒業して、奈良県に移り住んで46年(8年半はアメリカに住んでいました)が経ちました。
現在はリモートでの仕事と、民亊・家事の調停の仕事(調停委員)をして過ごしています。
高校2年の春に、群馬県から父の転勤で長井に引越ししてきました。早速編入試験を受け、長井高校に入ることが出来ました。編入試験といっても、皆の1年3学期の期末テストを渡されただけで、特別な試験ではありませんでした。即刻学校から、数学以外はもう一つと言われましたが幸いに合格でした。教科書が違うのに、英語と国語なんて分かる訳がなく、万国共通の数学で一矢を報いたという形でした。
入って驚いたのは、休憩中に皆が膨らんだ「赤尾の豆単」を開いて単語を覚えていた姿や、1年の夏休みに覚えた「構文100」を復読していた姿でした。群馬の学校では「活きた英語」という反受験英語だったので、皆との1年の差は相当大きく、以降万年Bクラスでした。得意だった化学の授業では、飄々とした感じの先生に硫酸の炭化作用?の説明で私の教科書に硫酸を垂らされ、2、3ページが炭化して穴が開いたことがありました。今の時代なら問題行動かもしれませんが、いじられたことは今でも懐かしい思い出でです。
私は、小学校、中学校も転校を経験しており転校には慣れていましたが、さすがに高校での転校は心配でした。初登校の自己紹介で吹奏楽の経験があると言ったとたん、昼休みに今は亡くなった淀君が吹奏楽部の勧誘に来てくれ、これが私にとって救いでした。吹奏楽部は3年の夏休みを含め9月までクラブ活動があり、皆が受験勉強をしている中、真暗な教室にカバンを取りに行ったときに、寂しさと焦りを感じたことを思い出されます。
最後に、皆さんや先生、先輩、後輩に良くして頂いたことを今でも感謝しています。